団地ニュース 平成28年11月号

◆就任のご挨拶◆

  藤村薬品轄イ世保支店 支店長 小林千治

小林千治新支店長.JPG この度、10月1日より前任の落水博文に代わり藤村薬品轄イ世保支店支店長に就任しました小林千治と申します。佐世保卸団地協同組合の皆様方におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。また平素より格別のご高配を賜り厚くお礼申し上げます。
 まず自己紹介をさせていただきます。家族構成は妻と、20歳と15歳の息子の4人家族です。私は長崎生まれの長崎育ち、昭和40年生まれの51歳です。しかしながら母親が佐世保市早岐の出身で、小さい頃は毎年、お盆・正月に帰省しておりましたので、佐世保は私の第二の故郷です。当時、早岐駅から小森橋を渡り、田んぼの中の道を浦川内の実家まで家族で歩いて帰っておりましたが、今では大型スーパーや住宅が立ち並び、実家の裏には大きな体育館まで出現する変貌ぶりには私も年を取ったのだなぁと感慨深く思っております。また私は司馬遼太郎の「坂の上の雲」が大好きで、この小説の中に何度も佐世保の地名が登場します。司令長官・東郷平八郎の佐世保停車場(現在の佐世保駅)での着任時のエピソードや戦艦三笠の大爆発など…。そのうち落ち着いて時間ができた時には、当時に思いを馳せながら歴史ある佐世保の街を散策しようと思っています。
 さて、弊社藤村薬品株式会社は、長崎県内における医療用医薬品の流通を中核とした医療総合商社として明治27年創業以来、お得意様、仕入メーカー様のご支援のもと着実な歩みを続けて参りました。私たちは「地域社会の人々の健康に奉仕する」を経営理念に掲げ、地域により密着した企業を目指し、共に繁栄し社会へ貢献することを念願しております。近年、薬業界を取り巻く環境は急速な変化を遂げておりますが、私たちはこのような状況下にあって医薬品流通業に課せられた社会的使命と必要性を十分認識し、地域社会の皆様の健康に貢献・奉仕するという原点を忘れることなく、なお一層の努力を続けて参ります。
 最後に佐世保卸団地協同組合の皆様方に、今後共より一層のご指導ご鞭撻をいただきますようお願い致しますと共に、皆様方のご健康、ご発展をお祈り致しまして私の就任のご挨拶とさせていただきます。


   〓代表者交代〓

    【会社名】    藤村薬品轄イ世保支店

    【前支店長】   落水博文

    【新支店長】   小林千治

    【生年月日】   昭和40年2月25日

    【出身地】    長崎市

    【入社年月日】 昭和58年3月2日

    【最終学歴】   長崎南山高等学校

    【前役職】    長崎第二支店・支店長

 


【卸団地あれこれ】

  「佐世保卸団地協同組合団地完成までの歴史」その13(最終回)

(10月号からの続き)

「団地完成」

 組合員の建屋は「八頭司方式」が取り入れられた。この方式は造成工事の入札経過にコリゴリした八頭司副理事長が、施行参加業者の談合を一切排除するという「八頭司方式」を編み出したことに他ならない。団地内の建設工事についてはこの方式が完全実施され、どれだけ目に見えない利益を上げたか分からないのであった。昭和46年5月には、団地敷地全域にわたり、「卸本町」として行政区に指定された。この頃、団地の中心となる組合会館が誕生した。鉄筋2階建てで、広さ1400u。1階はロビー、事務局、会議室など。2階は、大会議室、研修室など。前庭には芝生の庭園と噴水池が設けられ、駐車場も100台が収容できる広さ。会館の泉水には鯉が泳ぎ、訪れる人の目を楽しませていた。
 完成後の座談会で賀内理事(東洋物産且ミ長)は「ここに移ってきて以来、業績は上がるし、信用は高まるし、笑いが止まらない。また社屋を建てる前、こんな大きな建物が必要だろうかと躊躇したが、既に手狭になってきている。」、中村理事(樺村紙店社長)は「あんな山の中に、店を移して商売は出来るだろうか、お客さんは来てくれるであろうかと心配しましたが、思いすごしの杞憂に過ぎなかった。車泊まりはいいし、積み込みは自由自在だし、能率は120%以上であった。」、川島副理事長(佐世保三洋且ミ長)は「今までの家賃の一部で建設費の月々の支払いの一部に充当できる。そして倉庫が分散していたのが1ヶ所にまとまり、時間的にも作業能率からも数倍の得になった。三洋電機の本社からも「ここの卸団地の環境は日本一だ。残りの土地があったら、もう少し買え」と褒められました。このようにして昭和48年4月、組合員が夢にまで見た完成の日を迎えた。
 思えば長い道のりであった。敷地の決定、取得、造成など、さまざまな障害を乗り越えての晴れの日。関係者の胸には言い知れぬ感慨があった。松尾理事長は「この団地づくりという大事業を完成できたのも、なにはさておいても組合員全員の全幅的な理解、全理事の方々が本当に献身的に協力してくれた賜物であると心から感謝しています。それと私たち以上に情熱を注いで援助していただいた辻佐世保市長をはじめとする皆様方の名前はこの卸団地のある限り、忘れてはならないですね。ただただ、お礼を申し上げる以外にございません。有難うございました。」と述べられている。

(完)

 


〜10月定例昼食会〜

 10月3日、定例昼食会が開催された。
 今回は、三井住友海上火災保険鰍フ方をお招きし、マイカー通勤事故と企業リスクについて講話いただいた。

H28年10月定例昼食会.JPG 

 


<新警備員紹介>

  長崎綜合警備梶@野口伸一 氏

野口伸一新警備員.JPG 卸団地の警備担当であった北山忠士警備員の異動に伴い、8月17日より新たに野口伸一警備員が配属された。
 野口警備員は海上自衛隊を定年退職後、長崎綜合警備鰍ヨ再就職され卸団地担当となられた。現在、卸団地で働く皆様の信頼に応えられるよう日々の業務に邁進されている。
 また、約12年間、卸団地の警備担当として尽力された榊警備員が10月24日の勤務を最後に退職され、卸団地の警備は従来の2人体制(松尾警備員・野口警備員)となった。

 


●クレーム電話応対研修●

H28年10月クレーム電話研修.JPG 10月14日、(財)日本電信電話ユーザ協会本部契約講師の山下茂子氏を講師に迎え「クレーム電話応対研修」が開催された。
 コミュニケーション手段が多々ある中で、電話応対は「声」と「言葉」だけによるコミュニケーションであり、応対の良し悪しが強く印象に残るものである。応対が悪いと会社全体のイメージダウンに繋がりかねない。一人ひとりの応対が会社の業績に影響をもたらし、ビジネスの重要な鍵を握っていると言っても過言ではない。
 この研修では相手に不快感を与えないよう、また、立場に関わらず全員が会社の代表であるという自覚を持って電話応対に取り組むために、14名の受講者が実践を通してコミュニケーションスキルや言葉遣い等を学び、電話応対技術のレベルアップを図った。

H28年10月クレーム電話研修A.JPG 

 


■防災管理委員会■

 10月19日、組合員各企業の防災管理委員27名参加のもと防災管理委員会が開催された。H28年10月防災管理委員会 (1).JPG
 早岐警察署交通課長の木下直義氏を講師に迎え、交通事故防止用DVDを視聴後、県内及び管内における今年の交通事故状況報告と交通事故防止の指導があった。話によると、交通事故原因の約8割が安全運転義務違反すなわち「脇見ぼんやり運転」である。緊張感の欠如といったヒューマンエラーが大惨事を引き起こすことを認識してもらいたい。また飲酒運転については減少傾向に至らないという。こういう背景から考えると、飲酒運転で検挙されているのは氷山の一角かもしれない。
 講話の後は体験型講習を実施。前述のようになかなか減少しない飲酒運転への警戒心をより強固にしてもらうための飲酒状態疑似体験である。一定間隔にコーンを置き、専用ゴーグルを装着した状態でコーンに当たらないようジグザクに歩いてもらったが、これがなんとコーンに当たる人が続出。H28年10月防災管理委員会 (2).JPG中にはコーンを倒す人もいて、参加者の殆どがまともに歩けない状況だった。実際はそこまで酔うほどアルコールを摂取する人は少ないかもしれないが、酔っている状態では認識力や判断力が低下し、更に高揚感があいまって「これくらいなら運転しても大丈夫」と錯覚しがちである。この状態で運転すると前方の目立つものにばかりに焦点を合わせ、周囲に重要なものがあっても見逃してしまう。脇に車や歩行者がいても気付かず、中心視野内にそれらを捉えてから焦って回避しようとしても間に合わないといった危険性がある。
 言葉や映像だけでなく、体感することで飲酒運転がどれだけ危険なものかを記憶に刻んで頂いた防災管理委員の方より、従業員の皆さんへ飲酒運転絶対禁止の周知徹底・指導をお願いしたい。

 


★食品部会・雑貨部会 合同旅行記★

    〜北海道道東・世界遺産知床の旅〜

  叶V良商店 代表取締役 新良泰治

 10月6日〜9日の3泊4日の日程で食品部会・雑貨部会合同の総勢15名による北海道道東・世界遺産知床への旅行に行った。前日までは、台風18号の予想進路上、長崎近郊を直撃する可能性があり、ギリギリまで旅行出来るのか心配をしていた。
 出発当日は10月だというのに汗ばむ陽気で、福岡空港より羽田経由で女満別空港に向かい、貸切バスで北海道の長い直線道路を走り、初日唯一の観光地「オシンコシンの滝」を訪れた。高さ80mから水しぶきを上げて落下する姿は迫力満点で日本の滝百選にも選ばれ、双美の滝とも言われているそうである。
 2日目はメイン観光である知床観光船「おーろら」での知床半島の遊覧が折しも台風18号から温帯低気圧に食品・雑貨部会合同旅行写真.JPG変わった影響を受け、強風のため欠航となったことをバスガイドさんからホテルを出発前に告げられ、意気消沈しながら「オロンコ岩」に到着。高さ60mに登ることは出来きるのだが、生憎の雨模様で誰ひとり希望者がおらず、バスの車窓からの見学となった。その後、知床自然センターへ移動し、大画面映像による四季折々の知床半島が紹介され、海からの映像も多かったので、観ているうちになんとなく知床を遊覧した気分になってしまった。昼食を摂ったあと知床五湖の観光である。気温5度の強風の中を五湖のうちの一湖の高架木道を散策したのだが、原生林に囲まれたたずむ樹木や知床連山の壮大さも、あまりの寒さに瞑想に耽る余裕もなく敢え無く短時間で退却した。
 そして、3日目の朝は前日予定していた遊覧船に乗船したい一心で再チャレンジするもまたしても欠航となり、当初の観光行程どおり野付半島のトドワラを観るため片道1.5kmの道程を散策した。野付半島のトドワラは海水に浸食されたトドマツが立ち枯れた光景で、まさに地の果てを思わせるものであった。午後は開陽台展望台より北海道の大パノラマを望み、摩周湖の展望台へ移動した。摩周湖の展望台では目の前に立ちはだかる木々で摩周湖がよく観えなかったのが残念であった。
 最終日は「網走監獄博物館」の中を専門ガイドさんに説明を受けながら案内して頂き、最後の観光地である「オホーツク流氷館」ではマイナス15度の流氷室で実際の流氷を体感することができた。
 今回の旅行を通じて、雑貨部会の皆様はもとより食品部会の皆様とも楽しく過ごせたこと、交流できたことが何より財産だと感謝申し上げたい。

 


▲献血活動▲

 10月31日、組合会館前駐車場にて献血活動が行われ、月末の大変お忙しい中38名の方にご協力いただいた。
 少子高齢社会による若年人口の減少等で献血者数は減少している一方、輸血用血液製剤の使用状況は今後も需要拡大が予測されている。このような背景から卸団地では毎年3月と10月の年2回献血活動を行っており、1人でも多くの方に献血へのご協力を呼びかけている。

献血活動(H28年10月) (1).JPG献血活動(H28年10月) (2).JPG 

 


≪佐世保卸団地の歴史回想録(2)≫

  和信産業梶@代表取締役会長 浦山政信

「組合設立とその後の苦労」

 異業種で組合を設立する本格的な卸団地は、九州で初めての試みでもありそれは大変な苦労でした。先ず「設立から250日で2人の理事長が逝去されたことや」や「候補地が4か所破談したこと」等、今度の土地がダメだったら組合は解散しようとの話をするほど最初の苦労が有りました。
 順序を追って説明しますと、設立説明会には90名ほど集まりました。そのうち組合への加入申込は65社ありました。申込書には希望する土地の広さや社屋の坪数、現在の社屋の坪数、現在は自己所有か借家か、現在の売上高と将来の売り上げ計画等アンケートを取りますと、各社の計画は結構あやふやで「取りあえず申し込んでおこう。」と思われる方が随分と居られました。協同組合は原則加入脱退が自由でしたので大変困りました。中には不動産投資が目的だと思える方も有りました。何回か会議を重ねるうちに投資額の20%は自己資金を準備しなければならないとか、借入金は連帯保証であるとか、少しずつ積み立てを始めようとかの話が出るたびに段々と申し込みの数が減り、本当に意欲のある会社が残りました。取りあえず44社でスタートしましたが、連帯保証の事で辞められた3〜4社の方は、お願いしても残って頂きたい会社で有りましたので、2次3次で再度お願いして加入して頂きました。1社10万の出資金で昭和41年8月25日(1966年)に44社で設立致しました。ところが翌年2月には初代の柴藤製菓の柴藤理事長が逝去、5月1日には2代目の川下酒店の川下理事長が逝去されてしまいました。卸団地の理事長になれば死ぬとの噂迄出たりして、それならば若くて死にそうにない人をと言う事になり、当時42歳の「しぼりや」松尾社長が理事長に就任されました。勿論、繊維卸協会の長老始め皆でサポートしました。その頃「日本列島改造論」を引っ提げて田中角栄首相が登場され、日本の経済も発展に加速度がついた時代です。組合も松尾理事長になって凄く早いテンポで物事が動き始めました。

「土地探しで苦労の連続」

 最初の候補地の青果市場跡地を断念した後、次に福石の刑務所跡地を検討しましたが、これが“狭い”事と移転の時期が決まらない、佐世保市が使いたい等の理由でダメになりました。続いて今のマックスバリューのある付近の農地(田圃)も候補に上りましたが、単価が高い事と土地を嵩上げする必要があり、相当の埋め土をしなければならないことで見送りました。4番目が「ドンキホーテ」の線路を超えた向かい側「裏新田」と言う場所でしたが、絶対反対の一人の地主が存在し、それと踏切の問題もあり撤退しました。それほど佐世保は平地が無いのです。それでは山でも買って開発するかと冗談交じりの話が今の光栗地区になりました。
 当時黒髪・日宇・大塔地区を選挙地盤とされる吉田時義市議(最後は議長)と言う方が居られました。その弟吉田正義さんは吉田商事として衣料品の卸売業を生業とし、元々は私たちの繊維卸協会のメンバーでしたが、業種を三ツ星百貨店(食品スーパー)に切り替えられ大成功しておられました。その縁で私達も顔見知りの吉田市議から「良く知っているこの山ではどうか」と現在の光栗地区の一帯の話が持ち込まれました。見に行くと国道からは道も無く、山が入り込んでいる中に、小さい田畠があり、「タヌキ」が多く住む所でした。高いところを切って谷に埋めれば何とか平な土地になるはずだと吉田市議を間に入れ、直接買収交渉に入りました。地主の数は65人、何回かの交渉があり2〜3か月が経過した昭和43年の12月28日の御用納めの日に決着しようと、深夜まで交渉するも中々お互いの言い値が詰まらず物別れで終わりました。理事長はその日の内に連名でこれが決まらないと組合を解散するとの連判状を作りました。これを新年の仕事始めの日、辻市長に持ち込みますと市長はすぐに各部長を集め「市の経済発展のためだ。お前たちで何とかせよ」と特命を出されました。問題になっていたのが土地の売買単価でした。当方の言い値が一反(300坪)90万円、地主側の言い値が150万円、これの中を取って120万円でどうかと調整が図られ、両方の合意が昭和44年1月15日、売買契約書を作成し調印したのが同年1月27日です。
 各地主の売買面積は実測ではなく台帳面積によることとし、ただ買収地の周囲の境界の杭打ちには組合員が当番で立ち会う事になりました。当然の事の様に主に繊維卸協会の私達が受持つということで毎日ゴルフシューズを履いて杭打ちの立会いをしました。特に急な山坂ばかりで、時には立木につかまり、ある時は這うようにして行うなど大変でした。おかげで私の頭の中には何百本もの杭の位置が頭に入っております。卸団地落成の10年後に大岳台を開発した西鉄不動産がその為の進入道路を作る時や、同20年後の高速道路を作る時等、接点では必ず境界の杭のズレが有りましたが、それぞれ私が立ち合い解決して来ました。

(次号に続く)